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2015年06月06日

「南京大虐殺」が虚構である理由

 2014.07.11
文/幸福実現党政調会長 江夏正敏

◆ そもそも南京大虐殺とは?

1937(昭和12)年12 月13 日、日中戦争時に旧日本軍が中華民国の南京を制圧した際、民間人を含む多くの中国人を殺害したとされる事件をいいます。

日本政府は、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」としているものの、「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」との立場を取っています。

以下、「南京大虐殺がなかった」ことを示す論拠を挙げてみましょう。

◆ 南京市民は30万人もいなかった

中国側は犠牲者数を30 万人と主張していますが、これはあり得ない数字です。

当時の南京市長は、全市民に対して「南京安全区国際委員会」(以下、国際委員会)が管理する安全区内に避難するよう命令を出しました。国際委員会が、日本軍が南京に入城した12 月に出した文書には、難民の総人口は20 万人と記されています。

また、米副領事の報告に、南京人口は20 万人と記録されているほか、米誌「タイム」にも、「15万人の南京市民が避難した安全区」と書かれています。さらに、南京攻略を指揮した松井石根(まつい・いわね)大将は、日記に「避難区の人数は12万余」と記しています。

以上のことから、当時の南京の人口は12万から最高20 万人と見て間違いなく、30 万人の虐殺など不可能なのです。

◆ 日本軍による占領後、南京の人口は増えている

南京の人口は増えている30 万人もの大虐殺が行われたなら、南京の人口はゼロになるでしょうし、そのような場所に避難民が戻ってくることはあり得ないでしょう。

ところが、占領翌月の1938年1月の国際委員会の文書には25 万人と記されており、前月より5万人増えているのです。

東京裁判では、日本軍の南京占領後、「虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた」とされています。

しかし、人口が急速に増加している事実は、南京市の治安がよかったことの証左であり、国際委員会からは感謝の書簡が日本軍に送られたほどでした。

◆ 中国の指導者が南京大虐殺に言及していない

国民党の蒋介石や共産党の毛沢東といった当時の指導者たちは、南京大虐殺に言及していません。

特に、蒋介石は南京陥落後、漢口などで300 回も記者会見を行っていますが、虐殺を非難していないのです。

◆ 南京大虐殺は中国による宣伝工作だった

1938 年7 月、英国紙の中国特派員ティンパーリーが『戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐』をロンドンで出版し、世界に虐殺を告発しました。

しかし、同氏は国民党の中央宣伝部の顧問であり、同党から資金提供を受けていたことが明らかになっています。

◆ 中国が「南京大虐殺」をユネスコの記憶遺産申請

しかしながら先般、中国政府がいわゆる「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に関する資料をユネスコの記憶遺産に登録申請しました。

その申請の可否は、戦後70年の節目の年である平成27年の夏頃に決定します。

そこで私たちは、歴史認識をめぐる日本の名誉を回復し、中国による記憶遺産への申請に強く抗議する「署名活動」を展開し、日本政府に対して、登録阻止に向けて全力を尽くすよう要望して参ります。


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『南京大虐殺』の論点


2014.07.12
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


昨日の江夏政調会長の論考に続き、『南京大虐殺』を検証してみたいと思います。

◆ 諸説ある『南京大虐殺』の虐殺数

旧日本軍の虐殺数は、日本軍と戦った蒋介石が率いる国民党政府は、1947(昭和22)年の南京戦犯裁判軍事法廷で30万人以上とし、また中国共産党(現在の中国政府)は、30万〜60万人で100万人と言うこともあります。

東京裁判(米国を中心とする連合国が日本を裁いた裁判)では、20万人以上です。

アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』では26〜35万人。

日本の識者の研究 は 20 万人を上限として、4 万人、2 万人などがあります。

しかし、国際委員会の活動記録(1939年に出版)では、殺害件数は26件と報告(南京事件の研究家・板倉由明氏は46件と分類)しています。

しかも目撃されたものは1件のみで、他は伝聞や噂によるものです。

ちなみに米国は、広島や長崎に原爆を落とし、東京空襲では一夜で10万人の市民を虐殺するなど、トータルで30万人の日本の非戦闘員を殺害しました。

これは否定しようがない事実です。

米国は自国の大虐殺を打ち消すため、ドイツと同じようなユダヤ人大虐殺に匹敵する事件を日本を裁くために、でっち上げる必要があったわけです。

そこで東京裁判で、はじめて「南京大虐殺」をつくり上げました。

裁判では、日本軍がやったこととして虐殺などの証言は嘘でも認められ、それに対して日本側は反論の場も与えられない一方的な裁判を行ったのです。

◆ 当時の新聞記者の証言「見たことも聞いたこともない」

日本軍が南京に入城したのは、1937(昭和12)年12 月、世界のマスコミも含めて100人を超える報道機関が日本軍と南京城内に入っていますが、しかし当時30万人にも及ぶ虐殺があったという報道はされていません。

朝日新聞は従軍記者とカメラマンを16人派遣し自動車を使って南京戦を取材しました。

南京戦での朝日新聞従軍記者の証言として、「南京事件ねえ、全然聞いてない。もしあったとすれば、記者の中で話が出るはずだ。記者というのは、少しでも話題になりそうなことは、互いに話をするし、それが仕事ですからねえ。噂としても、聞いたことがない。朝日では、現地記者を集め、座談会もやったが、あったなら話がでるはずだ。報道規制?何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていた。」(橋本登美三郎氏 朝日新聞南京派遣記者団キャップ)

「私が編集局長の時、南京に特派した記者たちを集めて、一人一人 聞いてみたが、そのようなことは見たことも聞いたこともない、という返事ばかりだ。何万、何十万なんていう虐殺など、絶対にない。」(細川隆元氏 朝日新聞編集局長)


◆ 30万人の遺体が出ていない

アメリカが広島に落とした原爆で亡くなったのは10万人、だとしたら日本軍は原爆3つ分の兵器に匹敵する大虐殺を銃剣で行い、しかも世界のマスコミが一緒に入城していながら、誰にも見つからず12月の凍った土地を掘って30万人の遺体を埋めたということになります。

また南京では戦後、ビル建設も行われていますが遺体が出てきた話は全くありません。

ですから中国が主張する日本軍の30万人大虐殺は常識的に考えてあり得ません。

◆ 中国が『南京大虐殺』を捏造する訳―対日外交圧力のカードとして利用

1998年、当時の中国の江沢民国家主席は会議の席上、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示し、歴史問題を「対日外交圧力の重要カード」と位置付けていたことが「江沢民文選」の中で明らかになっています。

ですから、事実を捻じ曲げてでも、「日本を悪者」にしておく必要があるのです。

◆改革が求められる日本の「自虐史観教育」 (例・中学校の教科書)

東京書籍「首都南京を占領した。その際、婦女子を含む約20万人とも言われる中国人を殺害した(南京大虐殺)。」 

教育出版「日本軍は、シャンハイや首都ナンキンを占領し、多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領のさい、日本軍は、捕虜や武器を捨てた兵士、子供、女性などをふくむ住民を大量に殺害し、略奪や暴行を行った(ナンキン虐殺事件)。」

戦後の教育の中で捏造された歴史が子供たちに教えられています。

これでは日本の子供たちが自分の国に誇りを持てるわけがありません。

日本の子供たちが自分に自信が持てない理由の一因でもあります。

捏造された歴史を正し、先人の名誉を回復し、日本人の誇りを取り戻すことが必要なのです。



【参考図書】 『南京事件の総括 虐殺否定十五の論拠』田中正明著/謙光社 
『南京虐殺の検証―南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著/徳間書店 
『南京事件の核心』冨澤繁信著/展転社


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南京攻略の経過


2014.07.19
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


 ◆ 嘘の歴史で「日本包囲網」の形成する中国

「南京大虐殺」とは、1937(昭和12)年12 月13 日、松井石根大将率いる日本軍が国民党政府(蒋介石)の首都であった南京を制圧した(南京戦)際に、日本軍が20万人、30万人の民間人を殺害したと言われている事件です。

この「南京大虐殺」について、今年3月、中国政府が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に関する資料を国連教育科学文化機関である「ユネスコ」に「記憶遺産」として登録申請しました。

今後「南京大虐殺」が、国際的な話題になることは間違いありません。

中国の目的は、「南京大虐殺」を世界に喧伝することで世界的な日本包囲網を形成し日本を追い詰めることです。

このままでは、中国がつくった“虚構”の歴史が“事実”として後世に伝わり、私たちの先人は汚名を着せられるばかりではなく、さらに私たちの子孫は、未来永劫、世界中で嘘の歴史を理由に責められることでしょう。

ですから、現在、生を受けている者として、歴史をしっかりと検証し世界に説明する務めがあります。

これは、「歴史観に関する言論戦」ともいえるもので、ニュースファイルでも継続して「南京大虐殺」はあったのか、検証して参ります。

また弊党は、中国の暴挙を止めるため7月26日には、「中国による『南京大虐殺』『従軍慰安婦』のユネスコ記憶遺産登録申請は暴挙だ!!デモ」(http://info.hr-party.jp/2014/3190/)を計画しています。

◆ 日本が南京に進軍した理由

そもそも、日本軍はなぜ「南京」まで行かねばならなかったのでしょうか。

「南京戦」のきっかけになったのは、昭和12年8月に起こった「第二次上海事変」です。

上海で国民党軍に包囲され在留邦人の安全を確保するため、日本は上海派遣軍を派遣しました。

苦戦しながらも最終的に日本軍は上海を制圧したのですが、国民党軍は上海から揚子江を約300q、さかのぼった首都南京に逃げて行きました。

これを放置しておくと国民党軍は態勢を整え、再度上海に攻めてくる可能性があったため、日本軍は一気に降伏を迫るため、南京に軍を進めました。

この戦いが昭和12年12月の「南京戦」です。

南京の街は城壁で囲まれています。

城壁の長さは東京の山手線と同じくらいです。

12月9日に、日本軍の一部は南京城壁にたどり着き、いよいよ城内に入る準備が整いました。

◆ 日本軍の降伏勧告と国民党軍の南京脱出

南京城内には、松井大将が尊敬していた「孫文」のお墓があり、戦場になれば損傷することもある、そこで日本軍も勢いがあったので「もう勝負はついた」と、松井大将は国民党軍に10日のお昼まで降伏するよう勧告を出しました。

しかし国民党軍を率いる蒋介石は、南京防衛戦の総指揮官であった唐生智(とうせいち)に「南京を死守せよ」と命令を出していました。

その時、蒋介石は南京にはいなかったのですが、唐生智は蒋介石の命令に背くことができず、日本の降伏勧告を拒否しました。

それで日本軍の攻撃が始まり、12月12日になると城壁南の中華門に日本軍が軍を進めました。

12日の夜、戦闘は終わり、翌13日から戦闘が再開する段になったのです。

ところが日本の攻撃に、ついに南京を守れないと判断した唐生智は12日の夜、それぞれの部隊に、集結場所と日時を指定して「日本軍の包囲網をかいくぐって脱出するよう」に命令しました。

唐生智は、早々と南京城の北西にある下関(シャーカン)から揚子江を渡って南京から脱出しました。

残った国民党軍の残存兵は陸路脱出を始めたのです。

夜が明けて翌13日朝、日本軍が攻撃を始めると、昨日から一転して、国民党軍の反撃がありません。

間もなく国民党軍が撤退したと分かり、日本軍の部隊が東の中山門からどんどん入城しました。

まだ北西の城壁には敵軍がおり戦闘がありましたが、それでも13日に半分の日本軍部隊が城内に入り、東京では「南京陥落」と発表されました。

ただ、これですべての戦闘が終わったわけではありません。

◆ 残存兵の掃討戦

日本軍の包囲網を突破する残存兵と、また脱出しきれない残存兵の一部は、一般市民を保護するための「難民区」に市民の格好をして紛れ込みました。

「難民区」とは、アメリカなどの外国の宣教師が一般市民を保護するため設けたものです。

南京市の人口は、もともとには100万人でしたが、身の危険を感じた市民は南京を後にし、揚子江を渡って漢口に逃げ、日本軍が南京に入城した12月には、市民の人口は約20万人に減っており、戦火を逃れるために前述の「難民区」に避難していました。

その「難民区」に国民党軍の残存兵が紛れ込んでいます。

日本軍も、一般市民と思って見過ごした場合、不意打ちに発砲され戦死者が出てはたまりません。

ですから、日本軍が掃討戦を行うことは国際的にも非難できませんし、国際法では、兵士が市民に変装して戦うことは禁止されています。

よって日本軍は13日に南京陥落しましたが、入城した翌日12月14日から16日の3日間、残存兵を一掃する掃討戦が南京の城内、それと城外でも行われました。

これが「南京戦」の経過です。

以上は、戦後になって偽造された写真などではなく、当時の第一級の資料や文献で十分に立証できることであり、この段階で「大虐殺」はなかったことが証明できます。

参考:『南京虐殺の検証―南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著/徳間書店 
『従軍慰安婦問題と南京大虐殺は本当か?―左翼の源流 vs. E.ケイシ―・リーディング』大川隆法著/幸福の科学出版


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南京攻略後の松井石根大将


2014.08.07
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


◆歴史問題を言い続ける中国

「南京大虐殺」の虚構――南京攻略の経過
http://hrp-newsfile.jp/2014/1589/

上記の「ニュースファイル」で日本がなぜ南京まで進軍して蒋介石の国民党軍と戦ったのか、その「南京戦」の経過について紹介しました。

注意すべき点は、日本軍が戦ったのは、現在の「中国共産党政府」ではなく、蒋介石が率いる「国民党軍」であったという点です。

ですから現在の中国共産党政府が、「日本軍が30万人の大虐殺」を行ったということもおかしな話です。

現在の中国政府が、「日本軍は大虐殺をやった。だから謝れ」というには理由があります。

それは、江沢民元国家主席の国家戦略です。

江沢民は在任中の1998年8月、在外大使ら外交当局者を一堂に集めた会議の席上でこのように述べています。

「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」(江沢民著『江沢民文選』より)

つまり、江沢民は、経済支援を日本から引き出す外交圧力カードとして「歴史問題」を位置付けたのです。

ですからいわゆる「南京大虐殺」を中国が持ち出すようになったのは江沢民の時代からです。

さて、話を戻して今回は、その後の日本軍の行動について取り上げ、南京入城から終戦後の松井大将について取り上げたいと思います。

◆ 日本軍の南京入城

昭和12年12月13日、南京が陥落した後、17日に日本軍は、中山門から松井石根大将を迎えて日本軍は入城式を行いました。

松井大将は南京城内の北西部に司令部を設け4日間、南京にとどまりましたが、12月21日、下関から船に乗って上海に戻りました。

その後日本軍は、上海、南京を抑え、国民党軍のもう一つの要所であった杭州を攻め、これも簡単に攻略してしまいます。

こうして日本軍は、中支那方面軍は上海に、上海派遣軍は南京に、第10軍は杭州に司令部を置き、国民党の要所であった上海・南京、杭州をすべて抑えました。

これで日本軍は蒋介石が手を上げるだろうと判断し、仕上げとしてドイツ大使に仲介役をやってもらい日本と国民党政府との和平を進めようとしました。

ところが、結局ドイツ大使の仲介による和平工作は、年が明けた昭和13年1月2月になっても進展せず、蒋介石も降伏をしませんでした。

当時、日本軍は北京にも軍隊を送っており、また南京を攻撃するために内地からたくさんの部隊を送ったため、日本国内が手薄になっていました。

日本はソ連に対しても備える必要がありこれ以上、中国で戦線を広げることはできないという判断を昭和13年の1月にしたのです。

それで、上海、南京、杭州にいる、3つの軍を復員させ部隊を減らすという方針を決めました。

それで2月の下旬に松井大将も復員しました。

◆ 終戦後、出てきた南京事件

この段階で軍規も厳しく指導した松井大将が南京で「虐殺事件」が起きたことなど認識もしていませんでした。

松井大将が「虐殺」を知ったのは、それから8年経った昭和20年の終戦直後です。

終戦直後、アメリカの占領軍は「太平洋戦争史」というアメリカから見た戦争を発表しました。

アメリカは、戦勝国である立場から日本を悪者に仕立て上げる必要があります。

それが昭和12年、日本軍が南京を攻略したとき、殺人、強盗、暴行をやったという新聞記事になったのです。

それを見て松井大将が驚いたのは言うまでもありません。

松井大将は当時、日記をつけていました。

松井大将はあらためて昭和12年、8年前の日記を見ましたけど、そこでそういうことは当然、全然書いてありません。

当時松井大将は、虐殺事件があったという報告も受けていませんでした。

蛇足ですが、その松井大将の日記が昭和の50年代に松井大将のご自宅の天井裏から出てきたのです。

私は松井大将の秘書をされていた田中正明氏から昭和57年に、その日記の現物を手に取って見せていただいたことがあります。

日記には南京の入城式の様子も書いてあったのを覚えています。

松井大将からすれば自分の当時の日記が占領軍の手に渡れば、「南京の真相」が消されてしまうと判断し天井裏に隠したのかもしれません。

さて昭和21年に東京裁判が開かれましたが、東條英機元首相などが戦争犯罪者として次々に逮捕されました。

しかし、南京の大虐殺を言っていたのはアメリカと中国くらいで世界はまったく知りません。

大虐殺などもともとないのですから、世界が知らないのは当然です。

ですから連合国側にも松井大将が訴えるのはどうかという意見もあったようです。

しかし結局、松井大将は最終的に逮捕されるわけです。

松井大将は逮捕され東京裁判で「南京事件」が裁かれることになったわけです。

次回、東京裁判を中心に南京の真相にさらに迫って参ります。(つづく)


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東京裁判の検察側の証言


2014.08.09
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


 ◆ 東京裁判の判決

東京裁判で指摘された日本の指導者である東條英機大将や広田弘毅首相の訴因は「共同謀議」で、「侵略戦争」を計画したという罪です。

これについては別途説明が必要ですが、日本は戦争を避けるためにアメリカに対して外交努力を行っていたことが事実であって、日本の指導者が計画的に「侵略戦争」を相談していたわけではありません。

連合国があげた日本側に対する50以上の訴因の最後の方に「戦争法規違反」がありました。

東京裁判での松井大将の訴因は「昭和12年に日本軍が南京を攻略したときに不法行為を行ったと。数千人の市民を殺した」というものでした。

「戦争法規違反」とは、戦争というのは国際法では認められているわけですが、紛争解決の手段として、むやみに人を殺したり、捕虜を殺したりしてはいけないということです。

東京裁判での松井大将に対する判決は、簡単に言うと、「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に総数20万人以上を殺害した」というものです。

松井大将は、この判決で絞首刑になりました。

◆ 検事側の証言

東京裁判は、終戦の翌年昭和21年から始まり、最初の1年間は、検事側がいろいろな証拠や証言を取り上げました。

それが終わると今度は弁護側が1年間かけて、これに反論したのです。

これが東京裁判の経緯です。

検事側の証言者の一人が南京の金陵大学の教授でアメリカの宣教師でもあるマイナー・S・ベイツです。

同氏は安全区国際委員会の委員、国際赤十字の委員でもあり権威ある証言として東京裁判の判決に大きな影響をおよぼしました。

このベイツ氏は「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路で、射殺された民間人の死体がゴロゴロしておりました」と証言したのです。

つづいてベイツ氏は、金陵大学の教授であるルイス・スマイス氏と「いろいろな調査、観察の結果、我々が確かに知っている範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致しました」(「東京裁判速記録・第36号21・7・29」)と証言しました。

「結論と致しました」という言い方は含みがある言い方で、その調査方法は以下の通りです。

「スマイス調査」の人的被害調査は、南京市内の50戸から1戸を選んで、聞き取り調査を行い、その結果を50倍して集計し、兵士の暴行による死者は2400人と推定したり、わずか12人の調査員で述べ15日で調査を行い、結果3万1千人と推定、現実とはかけ離れた数値であると言わざるを得ません。

なお「スマイス調査」は、国民党国際宣伝処の要請と資金提供で書かれたことが分かっています。

「国民党国際宣伝処」とは、蒋介石が「日本軍の残虐さを世界に喧伝し、日本を貶めることを狙って南京陥落の直前から活動を始めた宣伝機関です。

その数値が正しいのか、その被害は、本当に日本軍がやったものなのか、国民党軍の敗残兵が逃げる時に起こした事件である可能性もあるわけですが、そうした検証はなされていません。

他にも中国人で「紅卍字会」の副会長である許伝音は、日本軍は手当たり次第に婦女子を強姦、市民を虐殺したことを証言しましたが、こうした証言によって日本軍が南京市民を手当たり次第に射殺し、最初の2、3日で1万2千人を殺したと主張したわけです。

◆ 日本国民に植え込まれた自虐史観

この東京裁判で連日述べられるこのような恐ろしい陳述を、日本国民は身も細るような思いで聞いていました。

当時のNHKラジオは、番組「真相はこうだ」で、この非人道的な凄惨な状況を、毎夜、「こんな悪いことを日本軍はやった」と放送し、新聞もこれを繰り返し記事にしました。

いわばこれが70年を経た今でも続いているわけです。
 
公正な検証もされないまま、一方的に「日本軍はこんな悪いことをした」と裁かれ、日本のマスコミもそのまま報道した、これが現在の日本人の「自虐史観」を形成した原因です。

では、この検事側の証言に対して日本の弁護側はどのような反証をしたのでしょうか。次回はその点に迫ります。(つづく)

参考
「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道著/草思社
「南京事件の総括」田中正明著/小学館文庫
「南京事件の探求」北村稔著/文藝春秋


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東京裁判の弁護側の反証


2014.08.23
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


 ◆ 弁護側の反証

前回、東京裁判における検察側の証言を取り上げましたが、一方的に「日本軍はこんな悪いことをした」という証言がなされました。

「南京大虐殺」の虚構――東京裁判の検察側の証言
http://hrp-newsfile.jp/2014/1631/

これに対して弁護側はどういう反論をしたかというと、主に3人が反論しました。

一人目は、中山寧人中佐で松井石根大将の下で参謀をやっていた方です。

中山参謀は、日本軍が南京を攻めた時に一番若いということで南京城内に軍と共に入り、松井大将に代わって指示や命令を出した方です。

南京を攻略した数日後の12月17日に松井大将は入城式で城内に入ってきたのですが、中山参謀は松井大将と一緒に3日間行動し、その後21日に松井大将と一緒に、もともと部隊があった上海まで帰っています。

この10日間の間、中山参謀は城内を巡視した際の証言をしています。

「中国人死体を見たのは、下関付近(南京城の外)で100くらいとアジア公園(中山門付近)で30くらいの中国軍人の戦死体とおぼしきものをみただけで、そのほかに常民の死体・虐殺体は私の目にはつきませんでした。」

もう一人、飯沼守参謀長の証言があります。

この方は上海派遣軍の朝香宮中将の下で参謀長をやった方です。

飯沼氏は南京陥落後、翌年の昭和13年2月の下旬まで2カ月間、城内にいました。

飯沼参謀長は、昭和12年12月16日と20日と年末の3回城内を巡視したのですが、「死体を市内で見たことはない。下関付近で数十の戦死死体を見ただけで数万の虐殺体など夢にもみたことはない」と証言しています。

以上のように二人の日本軍参謀の証言は、検察側のベイツの証言とは全然違っています。

では、東京裁判で松井大将はどのように証言したのでしょうか。

松井大将は当時自分が書いた日記の内容を述べました。

◆ 松井大将の証言

松井大将は12月17日に入城式をやり、18日は城内で慰霊祭をやって、19日に中山参謀とか武藤参謀副長などを連れて、城内を巡視しています。

そのとき小高い丘から南京を見て松井大将は以下のような日記を書きました。

「火災はすでにやみ、市内平穏にして、避難民も暫時その家宅に帰来しつつあるを見たり。なお当時、わずかに約20名の遺棄せるシナ兵の戦死死体を見たるのみにて、市内の秩序はおおむね恢復しつつあるを認めたり」

結局、松井大将も車で19日、城内を回ったのですが、検察側が証言したような死体は見ていません。

見たのは戦死死体だけでした。

このように前回のニュースファイルで紹介した検察側と証言と真っ向から対立したわけです。

◆ 一方的な判決

しかし法廷はどう判断し判決を下したのかというと、上記のような弁護側の反証は一切無視して、ベイツと許伝音の意見だけを取って「最初の2、3日で男女子供1万2千人を日本軍は殺害した」と結論づけました。

しかも注目すべきはベイツの証言で「最初の2、3日」と言ってないにも関わらず、わざわざ「最初の2、3日」を付け加えて判決を下したのです。

ここまで東京裁判は、日本側の証言を無視して一方的に行われました。

こうして日本軍が南京事件で虐殺を行ったという理由で、その責任を問われて松井石根大将は死刑になったのです。

最初から日本を一方的に「悪」と決め付け、判決が下されたのが東京裁判であったのです。

次回、南京城の中にあった「安全区」とは、どういうものであったのか、それを検証することによって「南京大虐殺」が虚構であったことを証明いたします。


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南京安全区文書の検証


2014.08.26
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


 ◆ 南京安全区文書

これまで東京裁判の証言から「南京大虐殺」が本当にあったのかを検証してきました。

今回は、別の角度から、東京裁判の検察側の証言がいかに間違っていたかについて指摘しておきます。

裁判の最初に証人が出た後、検察側は「日本はこんな悪いことをやった」という証拠として「南京安全区文書」を出してきました。

これは南京に残ったアメリカなどの宣教師たちが「国際安全委員会」という組織をつくり、南京の南にいた船賃もなく南京城外に逃げることができなかった市民を保護する目的で南京城内に「安全区(難民区)」をつくりました。

これについては日本軍も承認し戦闘の際に、日本軍は「安全区」に入らないことを約束しました。

これで安全区内の一般市民の安全を保障したのです。

実際に12月12日に国民党と間での戦闘が始まりましたが、日本軍が12月13日に南京に入城すると、14日に日本の外交官であった福田篤泰氏が南京城内に入りました。

彼は、アメリカやドイツの宣教師や商人の身の安全を確保するようにとの命令を受けてやってきたのでした。

日本の外交官であった福田氏は、後に東京裁判で証言した宣教師のベイツ等と、その当時連絡を取って、日本軍から被害を受けていないかを聞いて回りました。

その宣教師たちが日本の外交官に提出した文書が、ベイツらが書いた「南京安全区文書」です。

同文書によると、3日間で安全区の中で起きた事件は5件で、死者数は24人です。

つまりベイツは「南京安全区文書」で死者は24人と当時書いていながら、東京裁判では「1万2千人が死んだ」と証言したのです。

つまりベイツが当時出した「南京安全区文書」の内容と、東京裁判で証言した内容とは、まるっきり違っていたのです。

ここからもベイツの証言がウソだということが分かると思います。

◆ 日本の外交官、福田篤泰氏の証言

しかし、この死者「24人」の報告についても疑問があります。

日本の外交官である福田氏は国際安全委員会の安全と外国人の希望や意見を受け付けるのが仕事ですから、毎日、安全区にある事務所に行くわけです。

そこに中国人がやってきて、あそこで日本軍がこういう事件が起こした、とベイツたちに報告にきます。

それをベイツがタイプに打っていたのです。

それを見た福田氏はベイツに対して、「中国人が言っていることを確認した上で打たなければいけない」と注意し、実際に宣教師を連れてそこに行ってみると、何も事件は起きていなかったのです。

他にもアメリカ大使館から南京にあるアメリカ法人の会社に日本軍が入って、窃盗を働いているという抗議が入りました。

福田氏はびっくりして上海派遣軍の渉外担当の本郷忠夫参謀とすぐその現場に行ってみたのですが、そこでも何もありませんでした。

このように「南京安全区文書」に書かれていることは検証もされず、なかったことまで伝聞のままに記載されているのです。

ですから同文書にある死者24人という報告にも疑問があります。

もし仮に24人は本当だとしても、東京裁判で出てきた1万2千人という数字は疑問が残ります。

福田氏は、当時、安全区内の第三国人のパイプ役として毎日、安全区の中を行ったり来たりしています。

東京裁判には証人として出ませんでしたが福田氏は後にこう言っています。

「東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことがない。」

◆ 同盟通信の記者、前田氏の証言

さらに同盟通信の記者、前田氏の証言があります。

(同盟通信は戦後に共同通信と時事通信に分かれた) 通信社は取材のため上海から新聞記者とカメラマンが無線や食料を車に積んで軍の後を追ってきました。

前田氏は12月15日に城内に入り、その取材車で城内を回りました。

その様子を次のように書いています。

「私は、車で城内を回った。住民居住区は『避難民区』とされ、その周辺には警備隊が配備されていた。」

つまり安全区の周りには、日本軍の警備隊がいて、むやみやたらと入れなかったという証言をしています。

しかし「(同盟通信の)旧支局が区内にあるとの理由」で前田氏は中に入ることができました。

「また店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していた」。

これが12月15日の難民区の中の様子です。


安全区には大学や日本領事館、ドイツ公使館などの大きな建物が建ち並んでおり、比較的、高級な街です。

そこに難民が20万人もおり、道路にまでムシロで覆いをして人でいっぱいだったということを書いています。

市民は安全区に避難しているわけですから、中国が言うように日本軍が30万人を虐殺したとすれば、安全区の中に「死体がゴロゴロ」しているはずです。

しかしそうではありませんでした。

ここからも最初の2、3日で男女子供1万2千人を殺害したというのは、全くのつくり話だということがわかります。


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なぜ宣教師はウソの証言したのか


2014.09.02
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


◆ 聖職者がウソの証言をした理由

東京裁判では宣教師が日本軍の虐殺や、強姦があったことを証言しました。

裁判では、その証言が検証されないまま採用され判決が下されています。

では中立の立場であるべき、神に仕えるアメリカの聖職者である宣教師の証言は、本当に信用できるものだったのでしょうか? 

その証言はあまりにも信憑性に欠けるものでした。

その理由の一つは、アメリカの宣教師にとって、4億人の人口と近代化が遅れている中国は最大の布教地だったからです。

歴史的経過として南京大学や鼓楼病院をつくるため、アメリカのキリスト教関係者はアメリカで募金を集めてきました。

それは明治の終わりから始まって、大正までずっと続いてきましたが、信者が思うように増えませんでした。

それで昭和に入る頃には、もう中国大陸への伝道をやめようじゃないかという声がアメリカで起こったわけです。

宣教師の中には帰国命令を受けた人もいます。

宣教師としては、大陸伝道を何とか頑張ろうと、布教活動をアメリカに認めさせる必要があったのです。

そのために日本を悪者にする必要がありました。

つまり「中国人は本当にかわいそうだ。それは日本人のせいだ」とアメリカへの報告書で強調し、日本から受けた市民の被害を針小棒大に書いて、「だから布教をやめてはならない」とアメリカを説得しました。

これが宣教師のウソの証言につながっています。

◆ 中国を愛するアメリカ人たちの証言

また南京にいたアメリカの宣教師たちは、日本軍が攻めている中を、よく生き残ったのですが、10年前(1920年代)以下のようなことがありました。

その頃、南京では軍閥が占領しており、そこに蒋介石が攻めてきました。

蒋介石軍が攻めようが、そのときも南京大学や鼓楼病院も無事で宣教師たちも生き残ったのです。

例えばこのときに生き残ったウィルソンという鼓楼病院の医師は、中国で生まれています。

他にもYMCAの理事をやっていたフィッチも中国で生まれています。

彼らにとって中国は自分の国のようなものです。

また宣教師のベイツやマギーはアメリカで生まれていますが、20代に南京に渡ってきており、アメリカ以上に南京の生活が長く大陸に非常に愛着を持っています。

こうしてアメリカの宣教師は、明治の終わり頃から施設もない南京に大学や病院を建て30年、40年支援を続けてきました。

宣教師は最初の頃は病院や大学をつくって布教できましたが、なかなかそれが通用しなくなり、こうした時期に戦争が起き医療、薬が必要になったのです。

アグネス・メドレーの「戦争は彼らにとって神からの贈り物だ」という言葉もありますが、宣教師たちは、戦争を布教のチャンスととらえたのです。

◆ マギー証言――「私が見たのはたった一人です」

こうして大陸で伝道をしていくための論拠として宣教師たちの日本軍に対する証言が針小棒大になっていきました。

牧師のマギーとベイツが中心に東京裁判で日本軍による南京虐殺を証言したのです。

マギーは、東京裁判で「日本軍が来ると市民から時計から何から全部奪った。それから至るところで次々と殺していった。強姦もたくさんやった」と、日本兵のやった残虐な行為を2日間に亘って証言しました。

こうした証言の最後に日本の弁護士が反対尋問したのですが、そのやり取りが以下です。


弁護人「マギー証人、それではただいまお話になった不法行為、もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身、いくらくらいご覧になりましたか?」

マギー「私は自分の中にはっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃しました」

2日に亘って「日本軍がいたるところでやった殺人や殺戮」を証言したのにも関わらず、マギーは、自分が目撃したのは「たった一人です」と答えているのです。

また強姦に関する証言でも、弁護人が問い詰めるとマギーが見たのは「たった一件だけ」でした。

聖職者がまさかウソを言うはずはないと思うわけですが、実際には噂、伝聞の証言をしました。

こうして見てもいない、検証もされない証言がそのまま採用され東京裁判で「日本軍は20万人の市民を虐殺した」という判決が下されました。

松井石根大将はこうして汚名を着せられたまま死刑になったのです。

それが現在でも日本の教科書では、「南京大虐殺」として教えられているのです。

中国から謝罪しろと言わたら、本当の真実も知らずに「すいませんでした」と謝罪してきたのです。

戦後70年、そろそろ日本人は本当の歴史を世界に説明し、その汚名を晴らさなければ、私たちの子孫もまた世界から「いじめ」を受けることでしょう。

その汚名を晴らす役目は、いま生きている私たちの世代の役目でもあります。

次回、「戦争で勝って宣伝戦で敗けた日本」と題して、お送り致します。


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日本に仕掛けられた「宣伝戦」


2014.09.20
文/政務調査会課長代理 佐々木勝浩


 ◆ 蒋介石が第一次大戦でつかんだ教訓


国民党軍の蒋介石は、第一次世界大戦が終わった時にある教訓を得ていました。

それが「宣伝戦」です。

第一次世界大戦では、イギリスとフランスがドイツと戦いましたが、このときイギリスはドイツの残虐行為を捏造して新聞で報道しました。

イギリスの新聞『ロンドン・タイムズ』は、日本でいえば今の『朝日新聞』のように多くの人が読んでいる新聞です。

その『ロンドン・タイムズ』が、「ドイツ軍はイギリスやフランスの兵隊を煮て、そこから油をつくっている」という宣伝報道を行ったのです。

他にも『ニュースクロニクル』というロンドンの新聞が、「ドイツ軍はフランスやイギリスの兵隊を切り刻んで豚のえさにしている」と報道しました。

この報道でイギリス国民はドイツ軍の残忍さを信用してしまいました。

◆ 蒋介石が日本に仕掛けた「宣伝戦」

蒋介石は、この第一次大戦のイギリスがやったと同じ「宣伝戦」を日本軍との戦いで駆使したのです。

一例として、支那事変が始まり1ケ月が経ったころ、上海南駅を日本軍が爆撃しました。

その時の日本の攻撃で生き残った赤ちゃんが独り座っている写真が掲載され報道されました。

日本軍は民間人に犠牲者が出ないよう爆撃したのですが、この報道によって日本軍は民間人を狙った、とんでもない攻撃したという印象を与えました。

この写真をアメリカの『ファウスト』という新聞の系列が一斉に報じたため「なんて日本人というのは残虐な民族だ」ということがアメリカで一斉に広まりました。

極め付きは、『ライフ』という雑誌にこれが報道されたのです。

これを1億3千600万人のアメリカ人が見たと報じました。

これが昭和12年8月で、日本軍が南京に入城する4か月前です。

ところがその翌年、『ライフ』のライバル紙がこの報道の真相を明らかにしました。

上海南駅を日本軍が爆撃したのは確かですが、その写真を見ると、これを撮ったのはウォンという中国系アメリカ人で、何人かが爆撃後に赤ん坊を抱えて連れていく写真を掲載したのです。

その報道で、この赤ん坊の写真は、仕組まれた「やらせ写真」だということがわかりました。

しかし、その事実が分かっても後の祭りで、『ライフ』の報道で1億3千万人のアメリカ人が見てしまった後です。

その真相を載せた雑誌は部数も少なく、結局は反日感情を煽る「宣伝工作」を打ち消す効果はありませんでした。

◆ 蒋介石の宣伝戦に協力した外国人

こうして蒋介石・国民党軍側は、同じような宣伝工作を外国人や外国のメディアを使ってやっていたわけです。
当然、ここには外国人の協力者がいました。

その一人がティンパーリーという『マンチェスター・ガーディアン』というイギリスで2番目に大きい新聞社の記者です。

ティンパーリーは、日本が取った行動を針小棒大に本国に記事として送っていました。

その記事が、後に東京裁判で「南京」が注目される根拠になっています。

ティンパーリーは、後に国民党中央宣伝部の顧問に就任した人物であり、公正・中立な第三国人を装い、さらに「反日」を広めようとしました。

ティンパーリーは、南京にいる宣教師たちと連絡を取り合い、反日の材料になる話がないか、あったら送ってもらい、昭和13年の7月に『戦争とは何か――外国人の見た日本軍の暴行』として出版しました。

同書は、東京裁判にも大きな影響を与え、これが日本の「大虐殺」の虚構のルーツともいえるものです。

このようにして第一次世界大戦でイギリスがドイツに対してやったことと同じように蒋介石・国民党軍は「反日宣伝」を行ったのです。

これを裏付ける資料として国民党軍国際宣伝処処長の曾虚白は、「お金」を出してティンパーリーとスマイス(『スマイス報告』)に日本軍の南京における虐殺の「目撃録」を書いてもらったと『曾虚白伝(上)』で記しています。

つまり日本は「南京戦」では勝ちながら、しかし「宣伝戦」に敗れたということが言えるかもしれません。

◆ 松井石根大将の霊が証言

さて、話は変わりますが9月17日、大川隆法総裁が、南京攻略戦の司令官・松井石根大将を招霊し、当時、南京で何が起こったのか取材を試みました。

これは、「松井石根大将の霊に話をお聞きする」という普通ではあり得ない「奇跡」を実現したものです。

写真や文献として検証では、これまでも多くの識者によって「南京」の真相が明らかにされてきましたが、当時の当事者である松井石根大将を招霊することは大川隆法総裁にしかできないことです。



■9/19(金)発刊!
『南京大虐殺と従軍慰安婦は本当か−南京攻略の司令官・松井石根大将の霊言−』

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「南京大虐殺論争」に終止符を打つ当事者の証言!
「虐殺など、断じてありえない。誇り高き国に、もう一度なっていただきたい!」


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「紅卍会」の埋葬記録の検証


2014.10.04
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


◆15万余の埋葬記録

終戦後、連合国が日本を裁いた東京裁判において検察側の証拠資料に、南京市が出した「紅卍会」(こうまんじかい)と「崇善堂」(すうぜんどう)の埋葬記録があります。

「紅卍会」とは、道教の流れを汲む慈善団体で「赤十字」のような活動を行っていました。

「崇善堂」とは、清の時代に設立され子供の養育などをしていた慈善団体です。

東京裁判で報告された証拠資料は、「紅卍会」が埋葬した遺体が4万3071体、「崇善堂」が埋葬した遺体が11万2266体で、合計すると15万5337体になります。

「これらの遺体すべては日本軍が虐殺したものである」――と、東京裁判はそっくりそのままその数字を承認しました。

これが、いわゆる「南京大虐殺」があったという一つの根拠にもなっています。

◆ 「紅卍会」の埋葬記録の検証

まず「紅卍会」の埋葬記録を検証してみましょう。

「紅卍会」は、昭和12年12月、日本軍と国民党軍の戦いが終わると、さっそく埋葬作業に従事しました。

実はこのとき埋葬した遺体は、南京の戦いで亡くなった戦死体だけではありませんでした。

南京戦に先立つ上海事変で負傷した国民党軍の将兵は、列車で南京に送られ、そのまま放置されたり、病院に収容されても国民党軍が南京から逃げ出したので、置き去りにされた遺体でした。

他にも南京では難民が毎年15万人ほど発生し行き倒れもありました。

そうした遺体と戦死者の遺体を「紅卍会」は埋葬したのです。

こうした事実は「中華民国27年度、南京市政概況」「南京市政府行政統計報告」などの昭和14年に中国で発刊された刊行物に記述されています。

つまり、日本軍による、いわゆる「南京大虐殺」は、中国の当時の文献によって崩れています。

◆ 埋葬数の水増し

南京の治安が安定して翌13年1月になると南京市民による自治委員会が結成されました。

そして同委員会が資金を出し「紅卍会」の埋葬作業は続けられました。

翌年の昭和13年2月〜3月には日本軍が主導して南京城の内側と外側で遺体の埋葬作業を行いました。

この時、「紅卍会」を通じて埋葬作業を指導したのが、日本の南京特務機関の丸山進氏です。

同特務機関は、「紅卍会」に埋葬の資金を提供しているのですが、その際に埋葬数を水増し請求してきても、差額を「紅卍会」への援助金としました。

東京裁判に提出された「紅卍会」の埋葬記録は、前述のように4万3071体で、うち南京城内で1793体、城外では4万1278体を埋葬したことになっています。

丸山進氏によれば、水増し数は1万4000〜1万8000、多ければ2万3000体と考えられ、これからすると「紅卍会」の実際の埋葬数は2万〜3万くらいと推定されます。

また「紅卍会」の埋葬記録で、南京城内の安全区にあった遺体は175体です。

これも東京裁判で宣教師が証言した虐殺数1万2000体とは、桁が違い過ぎます。

これを見ても南京大虐殺の信憑性は崩れています。

◆ 安全区の175体の遺体

日本軍が上海から南京に向かっていることを知った裕福な市民は、早々と日本軍が来る前に南京市の北側に接する揚子江から船で避難しました。

昭和12年12月1日、アメリカの宣教師が中心に組織した国際委員会が安全区をつくったのですが、その時に南京城内の南方にいた船賃も持ってない人たちがたくさん安全区に入って来ました。

それで治安が悪くなったこともあり、国民党軍が12月7日に100人程を射殺しました。その遺体が安全区の中にあったのです。

国際委員会は、安全区をつくるときに、日本軍と国民党軍に対して、安全区を攻撃しないよう約束を取り付けていました。

日本軍はそれを守りました。

ただ12月11日、南京城内で戦闘が始まる前に日本軍は、安全区のそばにあった中国軍の高射砲の陣地を攻撃しました。

その際、逸れ弾があり、安全区の辺りに落ち10数人が犠牲になったという記録があります。

このことから安全区の中にあった遺体は、国民党軍が射殺した100人程度と、それと日本軍が攻撃した際の犠牲者10数体を合わせると「紅卍会埋葬記録」の175体と符合します。
以上、「紅卍会埋葬記録」の4万3071体は、戦死体の他、国民党軍が置き去りにした将兵の遺体、行き倒れ遺体、戦闘で巻き添えにあった遺体が含まれ、さらに埋葬数は水増しされたもので、ここからも日本軍の大虐殺などは最初からなかったことがわかります。

次回は、もう一つの「崇善堂」の埋葬記録を検証します。



【参考文献】
『南京大虐殺の徹底検証』東中野 修道著 展転社   
『南京虐殺の虚構』田中正明著 日本教文社
『南京事件の総括』田中正明著 小学館文庫
『南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著 徳間書店


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「崇善堂」の埋葬記録の検証 (1)


2014.10.14
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


◆「崇善堂」の遺体埋葬記録

前回、連合国が日本を裁いた東京裁判において検察側の証拠資料に、南京市が出した「紅卍会」(こうまんじかい)の4万3071体の遺体埋葬記録を検証しました。

今回は、「崇善堂」(すうぜんどう) が出した11万2266体の遺体埋葬記録を検証します。

「崇善堂」とは、清の時代に設立され子供の養育などをしていた慈善団体です。

「紅卍会」が出してきた埋葬記録もそうですが、2つの埋葬記録は南京に日本軍が入城(1937年)してから9年後の1946年につくられたものです。

偽証罪 (嘘を証言した罪) が問われない東京裁判において、9年を経て裁判のためにつくられた埋葬記録が、はたして信憑性に絶え得るものでしょうか。

「紅卍会」の埋葬記録は、戦後の東京裁判になって突然脚光をあびるようになりました。

以後、日本軍による「大虐殺」を主張する論者によって「崇善堂」の11万余体の埋葬記録は「南京大虐殺」を証明するに欠かすことのできない重要な武器となったのです。

こういう筆者も1980年代当時、左派の活動家と「南京大虐殺の論議」をした際に「10万体もの埋葬記録が残っているのを知らないのか!」と一喝され、当時は論破できる資料や論拠がなく返答に困ったことがあります。

逆に言えば、この「崇善堂」の埋葬記録の論拠が崩壊すれば、いわゆる「南京大虐殺」自体も崩壊します。

◆ 不自然な「崇善堂」の埋葬記録

『日中戦争史』の記録によれば、「崇善堂」は、4月9日から5月1日までの25日間で11万2266体の遺体を埋葬したことになっています。

ブルドーザーもトラックもない当時、1日あたり4490体を運び埋葬したことになります。

また、どの埋葬場所にも女性と子供が平均して3パーセントずつ配分されており、あまりにも作為的です。

ちなみに「紅卍会」の埋葬記録は、女子と子供はほとんど皆無です。

さらに不可解なことは、日本軍が支援して「紅卍会」が埋葬を済ませた中華門、雨華台、水西門外の区域で、埋葬した記録があることです。

これが本当の記録であれば「紅卍会」がきれいに埋葬したあと同じ区域から、しかも数ケ月も経って遺体が大量に出てきたということになります。

もちろん東京裁判で弁護側は、この埋葬記録は、南京戦から9年後につくられたもので、明らかに作為的な記録であると反論しました。

しかし一切検証もされず東京裁判の判決は以下のようなものです。

「日本軍が占領してから…虐殺された一般人と捕虜の総数は20万人以上であった。…これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその団体が埋葬した15万5000に及んだ事実によって証明されている。」

こうして、南京で大虐殺があったことは、埋葬数(「紅卍会」と「崇善堂」の埋葬記録を合わせると15万余体)が決定的な決め手になったのです。

◆ 現在の教科書の記述

現在の日本の歴史教科書では、いまでも下記のように教えています。

「日本軍は南京を占領しました。その過程で女性や子どもを含む中国人を大量に殺害しました。」(中学校「東京書籍」)

「約20万人ともいわれる軍人・捕虜・非戦闘員を殺害するとともに、掠奪・放火・性暴力を多数ひきおこした。」(高校「日本書籍」)

このように東京裁判の判決に基づいて、戦後69年経った今でも中学校、高校で教えられているのです。

では「崇善堂」とはどのような団体だったのかを、次回はさらに詳細に検証します。

これを知れば、中国や左派が主張するいわゆる「南京大虐殺」の根拠は完全に崩壊します。

◆不可解な「崇善堂」の遺体埋葬記録

前回も説明したように東京裁判は、「偽証罪」(裁判でウソを証言した罪)が問われず、始めから日本を貶める作意のある裁判でした。

ですから証言や出された資料が真実かどうかの検証もされていません。

日本軍が南京に入城したのは昭和12年12月ですが、昭和21年から始まった「東京裁判」のために作成されたのが「崇善堂」(すうぜんどう)の遺体埋葬記録です。

これは当時の記録ではなく9年経ってから作成された記録です。

「崇善堂」の埋葬記録は、別の慈善団体である「紅卍会」(こうまんじかい)が遺体埋葬を終えてから、数か月後に同じ場所で遺体埋葬作業が行われ、つじつまの合わない不可解な点があることは、前回のニュースファイルで指摘したとおりです。

では、この「崇善堂」とはどのような団体だったのでしょうか?

◆ 「崇善堂」は埋葬活動をしていない?

昭和12年末〜昭和13年始めに埋葬活動を行っていた「紅卍会」の埋葬活動は、当時も目撃されています。

私も当時の記録フィルムで「紅卍会」の活動の映像を見たことがあります。

「紅卍会」は4万余体を埋葬しているので、その倍以上11万余体の埋葬活動をした「崇善堂」が目撃されていてもおかしくないのですが、当時南京にいた日本兵の間でも「崇善堂」という存在は知られていませんでした。

また国際委員会の記録の中にも、ティンパーリーのように国民党の中央宣伝部の依頼で、世界に日本の虐殺を告発するために出版した「戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐」にも「崇善堂」の名はどこにも出てきていません。

もし「崇善堂」が、埋葬活動をしていないとしたら、「南京大虐殺」の根拠になっている埋葬数11万余体が架空の数字だったということになります。

当時中国の文献で検証できれば、中国が主張する日本の「南京大虐殺」は完全に崩壊します。

◆ 当時の中国文献から「崇善堂」を検証

1945年11月、中国側は東京裁判に提出する資料を作成するため「南京地方法院検察処敵人罪行調査委員会」を設けました。

同委員会は、官民合同の14の政府機関や民間団体を網羅し「紅卍会」まで加わっていますが、どうしたわけかここにも「崇善堂」は名を連ねていません。

「紅卍会」の倍以上の11万余体もの遺体埋葬をしているにも関わらず、当時の中国側の文献にも「崇善堂」の名前さえないのです。

その実態が明らかになったのは、昭和60年8月10日付け「産経新聞」のスクープ記事からです。
国立国会図書館にあった「中華民国27年度版(昭和13年)南京市政概況」などの当時の南京市の史料で、ここには当時の慈善団体とその活動が記されていました。

ちなみに「紅卍会」の活動は、「収容」「埋葬」という活動が記されています。

ところが「崇善堂」の活動欄には、「乳呑児を育てる」の文字はありますが「埋葬」は記されていません。

さらに決定的なことは、日本軍の南京入城後に中国で編集された「南京市政概況」には、「紅卍会」は、「工作進行」(活動が続いている)と記されていますが、「崇善堂」は、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが規模が縮小)しています。

同文献の遺体埋葬の団体の中にも「紅卍会」はあっても「崇善堂」の名前はないのです。

また「南京商工会議所編」の「南京」には、「崇善堂」が本格的に活動したのは、南京戦後の8か月も経った「昭和13年9月から」と記されています。

つまり東京裁判に報告された「崇善堂」の埋葬活動が、「昭和13年4月9日から5月1日まで」(『日中戦争史』)であることが明らかになっていますが「崇善堂」は、その時期、南京では活動していなかったと中国の文献自体が記しているのです。

「崇善堂」の人員構成がはじめて出てくるのは、戦後しばらく経った中国の文献である『証言・南京大虐殺』(中国/南京市文史資料研究会・1984年「青木書店」)です。

同書によると「崇善堂」は、主任1人、隊員1人、人夫10人、計12人で構成されています。

これが真実であるとしたら「崇善堂」は、 1か月弱の間に12人で11万体、一日で多い日は数千体を埋葬したということになります。

ショベルカーもブルドーザーもない時代に手作業でやったというのは常識的に考えてもあり得ないことです。

中国側に下記のように質問してみたいものです。

「当時、南京で活動していなかった『崇善堂』が、11万余体の遺体をどうやって埋葬したのですか?また『紅卍会』が埋葬を完了した同じ場所から数か月経ってどうして遺体がでてきたのですか?その時の状況を説明してください。また『崇善堂』は12人で、1日で数千体を埋葬したことになっていますが、どんな方法で埋葬したのですか?」

以上、二回にわたって「崇善堂」の埋葬記録を検証しましたが、いかにずさんなものだったことが分かります。

ですから日本が検証もせず、中国から言われるままに「南京大虐殺」を謝罪し、そのたびに経済支援を要求されるとしたら、まったく愚かなことであると言わざるを終えません。

しかし、これまで日本の政治家は中国に対して謝罪を繰り返してきたのです。

【参考図書】
「南京事件の総括」田中正明著/小学館文庫
「南京の実相―国際連盟は『南京2万人虐殺』すら認めなかった」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)/日新報道


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「崇善堂」の埋葬記録の検証 (2) 
 【「崇善堂」の埋葬記録の検証 (1)と内容は重複していますが、ご了承ください。】


2014.10.25
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


◆不可解な「崇善堂」の遺体埋葬記録

前回も説明したように東京裁判は、「偽証罪」(裁判でウソを証言した罪)が問われず、始めから日本を貶める作意のある裁判でした。

ですから証言や出された資料が真実かどうかの検証もされていません。

日本軍が南京に入城したのは昭和12年12月ですが、昭和21年から始まった「東京裁判」のために作成されたのが「崇善堂」(すうぜんどう)の遺体埋葬記録です。

これは当時の記録ではなく9年経ってから作成された記録です。

「崇善堂」の埋葬記録は、別の慈善団体である「紅卍会」(こうまんじかい)が遺体埋葬を終えてから、数か月後に同じ場所で遺体埋葬作業が行われ、つじつまの合わない不可解な点があることは、前回のニュースファイルで指摘したとおりです。

では、この「崇善堂」とはどのような団体だったのでしょうか?

◆ 「崇善堂」は埋葬活動をしていない?

昭和12年末〜昭和13年始めに埋葬活動を行っていた「紅卍会」の埋葬活動は、当時も目撃されています。

私も当時の記録フィルムで「紅卍会」の活動の映像を見たことがあります。

「紅卍会」は4万余体を埋葬しているので、その倍以上11万余体の埋葬活動をした「崇善堂」が目撃されていてもおかしくないのですが、当時南京にいた日本兵の間でも「崇善堂」という存在は知られていませんでした。

また国際委員会の記録の中にも、ティンパーリーのように国民党の中央宣伝部の依頼で、世界に日本の虐殺を告発するために出版した「戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐」にも「崇善堂」の名はどこにも出てきていません。

もし「崇善堂」が、埋葬活動をしていないとしたら、「南京大虐殺」の根拠になっている埋葬数11万余体が架空の数字だったということになります。

当時中国の文献で検証できれば、中国が主張する日本の「南京大虐殺」は完全に崩壊します。

◆ 当時の中国文献から「崇善堂」を検証

1945年11月、中国側は東京裁判に提出する資料を作成するため「南京地方法院検察処敵人罪行調査委員会」を設けました。

同委員会は、官民合同の14の政府機関や民間団体を網羅し「紅卍会」まで加わっていますが、どうしたわけかここにも「崇善堂」は名を連ねていません。

「紅卍会」の倍以上の11万余体もの遺体埋葬をしているにも関わらず、当時の中国側の文献にも「崇善堂」の名前さえないのです。

その実態が明らかになったのは、昭和60年8月10日付け「産経新聞」のスクープ記事からです。

国立国会図書館にあった「中華民国27年度版(昭和13年)南京市政概況」などの当時の南京市の史料で、ここには当時の慈善団体とその活動が記されていました。

ちなみに「紅卍会」の活動は、「収容」「埋葬」という活動が記されています。ところが「崇善堂」の活動欄には、「乳呑児を育てる」の文字はありますが「埋葬」は記されていません。

さらに決定的なことは、日本軍の南京入城後に中国で編集された「南京市政概況」には、「紅卍会」は、「工作進行」(活動が続いている)と記されていますが、「崇善堂」は、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが規模が縮小)しています。

同文献の遺体埋葬の団体の中にも「紅卍会」はあっても「崇善堂」の名前はないのです。

また「南京商工会議所編」の「南京」には、「崇善堂」が本格的に活動したのは、南京戦後の8か月も経った「昭和13年9月から」と記されています。

つまり東京裁判に報告された「崇善堂」の埋葬活動が、「昭和13年4月9日から5月1日まで」(『日中戦争史』)であることが明らかになっていますが「崇善堂」は、その時期、南京では活動していなかったと中国の文献自体が記しているのです。

「崇善堂」の人員構成がはじめて出てくるのは、戦後しばらく経った中国の文献である『証言・南京大虐殺』(中国/南京市文史資料研究会・1984年「青木書店」)です。

同書によると「崇善堂」は、主任1人、隊員1人、人夫10人、計12人で構成されています。

これが真実であるとしたら「崇善堂」は、 1か月弱の間に12人で11万体、一日で多い日は数千体を埋葬したということになります。

ショベルカーもブルトーザーもない時代に手作業でやったというのは常識的に考えてもあり得ないことです。

中国側に下記のように質問してみたいものです。

「当時、南京で活動していなかった『崇善堂』が、11万余体の遺体をどうやって埋葬したのですか?また『紅卍会』が埋葬を完了した同じ場所から数か月経ってどうして遺体がでてきたのですか?その時の状況を説明してください。また『崇善堂』は12人で、1日で数千体を埋葬したことになっていますが、どんな方法で埋葬したのですか?」

以上、二回にわたって「崇善堂」の埋葬記録を検証しましたが、いかにずさんなものだったことが分かります。

ですから日本が検証もせず、中国から言われるままに「南京大虐殺」を謝罪し、そのたびに経済支援を要求されるとしたら、まったく愚かなことであると言わざるを終えません。

しかし、これまで日本の政治家は中国に対して謝罪を繰り返してきたのです。

【参考図書】
「南京事件の総括」田中正明著/小学館文庫
「南京の実相―国際連盟は『南京2万人虐殺』すら認めなかった」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)/日新報道


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「大虐殺」の命令はあったのか


2014.11.15
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩


 ◆「大虐殺」の命令はあったのか

アメリカは広島や長崎の原爆、東京などの空襲で、一般市民30万人以上を「大虐殺」しました。

これは逃れようのない歴史の事実です。

国際法で禁じられている一般市民の大虐殺をアメリカは「国家の命令」によって行ったのです。

では、日本国あるいは日本軍による「大虐殺」の命令はあったのでしょうか。

今回は南京での虐殺の責任を問われ絞首刑になった松井石根大将が大虐殺の命令を出したのかどうか、検証してみましょう。

◆ 日本軍の「南京城攻略要項」

1937年12月7日、日本軍は南京攻略戦にあたり部隊へ「南京城攻略要領」として、その際の心得、注意を指示しました。

この中に、南京攻略作戦の準備、手順などが示され、最後の7つ目の「南京城の攻略及入城に関する注意事項」で皇軍(神の軍隊)として、諸外国の権益を保護すること、正々堂々、将来の模範となるよう、不法行為を厳しく取り締まる内容が書いてあります。(抜粋)

「部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す」

「掠奪行為を為し又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す」

「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不正行為を摘発せしむ」

これを見てもわかるように南京攻略の総責任者である松井石根大将は、日本軍が入城する際に、厳しい軍紀を示しています。

これについては中山寧人(南京戦当時陸軍少佐)氏の以下の証言からも窺えます。(「東京裁判 第214号1947年5月12日弁護側反証段階(三)」)

「松井大将は蘇洲到着後、塚田参謀長に対し『南京は中国の首都であるから之が攻略は世界的事件である故に慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し中国民衆の信頼を増す様にせよ』と言われました。」

以上のように日本軍の命令として計画的な殺戮や強姦はなかったことを、「南京城攻略要項」が証明しています。

◆ 軍による計画的な虐殺はなかった

ただ、残念にも100%日本軍の軍紀が守られたかとそうではありませんでした。

第十軍の法務部長であった小川関次郎氏は、残っていた記録から11月から南京に入城した12月まで20人くらいの処罰を行ったと東京裁判で証言しています。

そもそも「大虐殺」の命令が出ているのであれば、処罰する必要もありません。

当時、松井大将は若干の不祥事を把握しており、南京陥落後に行なわれた慰霊祭の際に15分にわたって「いまわしい事件が起こり、戦没将兵が立てた功を半減させてしまった。なにをもって英霊にまみえんか」と涙ながらに軍紀の粛正を訓示しました。

東京裁判で松井大将はこうした若干の不祥事があったことを正直に認めました。

ところが、この若干の不祥事が、判決になると「20万人の大虐殺」として下されたのです。

こうして国家の命令として原爆と大空襲という国際法で禁じられていた民間人の大虐殺を行ったアメリカが、若干の不祥事にも関わらず松井大将に、20万人大虐殺の汚名を着せて絞首刑台に送り込んでしまったのです。

◆ 正義の女神が過去の賞罰を変える時

戦後70年を経た今、日本に大虐殺という汚名を着せた「東京裁判」が「歴史の真相」によって裁かれる番です。

最後に東京裁判を「勝者による儀式化された復讐」と主張した東京裁判の判事の中で、唯一の国際法学者であったインドのラダ・ビノード・パール博士の次の言葉を紹介します。

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には 
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら 
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう




※参考
『南京戦史資料集』偕行社
『再検証・南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著 徳間書店


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posted by たわごとオヤジ at 19:58| Comment(0) | 南京大虐殺の虚構 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする